戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版

かつては武蔵境駅から中島飛行機への引き込み線が延びていた。戦後、引き込み線は三鷹駅へと延びた。武蔵境からの引き込み線は浄水場へとつながった。

26Pの時計塔とメインストリートの写真は驚愕するわ(・_・;)

田無にはお地蔵さんが多いのね(;´・ω・)

荻窪の桃井に中島飛行機の工場ができ、谷戸に試運転場が造られた。

自由学園の女子部は中島飛行機勤労奉仕や女子挺身隊となった。

合川に残る橋台や築堤は立野緑道。未だ現存しているか?

野川の御塔坂下の辺りは高射砲や兵舎跡があったのだな。

ICUもかつては中島飛行機の軍用機研究機関だったのだな。しかし、調布飛行機への誘導路って、今どうなってるんだろ?

かつての中央航空研究所は、航空宇宙研究センターと海上技術研究所、三鷹市役所、杏林大学消防大学校などに代わったのか。

つい最近まで残っていた日本無線は元軍需工場だった。東大井の頭寮も少し前まであった。山中住宅や東野住宅は戦争末期につくられたのか。

武蔵製作所は1943年に合併するまで陸軍と海軍の工場が並立して歪みあっていた。

そして、物資不足の中で作られた飛行機も、つまりは特攻機という(;´д`)