• 祈りより慾かも

アラブ、祈りとしての文学

アラブ、祈りとしての文学


たぶん,筆者はここ数年のアラブ情勢の中で最も積極的に発言・行動してきた人物の1人と思われるのだが,こんなに文学とりわけ小説の擁護者であるとは思わなかった。少なくとも過半までは「祈りとしての文学」というより「欲望・情欲としての文学」の方がタイトルとしてふさわしいのではないかと思われたのだが,「宗教の名のもとにふるまわれる理不尽な暴力によるもっとも悲惨な抑圧を被るのも,こうした社会の低みで生きる女性たちであるが,同時に『人権の彼岸』に生きるこれらの者たちがイスラームの信仰を力にして,あらゆる不条理に耐えていることもまた,まぎれもない事実なのである」などという部分は説得的だ。そして,「フィルダウスがその人生の経験から疑う余地なく学び知ったこととは,社会的成功とは体制の権威に従属し,それを自ら分有することであり,それはフィルダウスのような者たちを踏み台にすることによって成し遂げられているということである。……すなわち,これらサバルタン女性たちは「私」がさらなる権威を分有するために搾取する資源なのである。……フィルダウスの生がフェミニスト知識人によって真に表象されるためには,フェミニスト知識人はフィルダウスによってその権威を否定され,その存在自体を拒絶され,そうされることによって,自らが何者であるのかをフェミニスト知識人自身が痛みをもって理解する必要があったのである」という部分は,筆者自身にも読者にもストレートに痛烈である。だが,ここに紹介された小説群を読みたいかと問われれば,ナショナリティやらセクシュアリティやらのダツコウチクが羊頭狗肉っぽくて,さっぱり触手がそそられない…のだった(-_-;)