特に前半の方が,二人よりも三人,四人の方が面白い。充分な演劇或はエンターテインメントになってる。少しずつ〆(.. )しとく。

石川「市原悦子のポリー(三文オペラ)はよかったね」
武田泰淳「牢屋へ入れられてからは禅宗のやつが頑張るんだな。ところが,真宗のやつは,運動したことが,おごり,たかぶりであったというので全部転向しちゃう」
石川「傲慢といえば,禅宗の坊主ですね。お釈迦様と自分はおんなじだと思っているから」
武田「ダイナマイト投げるということは,大変なエゴだよ」
花田清輝「エゴを捨てて投げるんだから」
武田「悟っているんだったら,こんなところ(座談会)に出て来ないよ」
花田「そういうところに出て来るのが,ほんとの悟りだよ」(1962年)

石川「老荘の徒だったら毛さんの『語録』を含めてみんな焼いちゃったっていいんだ。それなら賛成なんだな」「江戸時代には,官学である朱子学の立場に反対した荻生徂徠みたいな人が,言葉は言葉として尊重しろというような学説を出していますよ。幕府は徂徠を弾圧せずに,逆に用いていた。いまの中国さんのそれ(文革)は江戸幕府より政治の手際が下手です」
三島由紀夫「何とかして虚を信じたいと思えば思うほど,虚をしっかり把握するためにはどうしても実がほしい。そうすると剣ということになっちゃう」
安部公房「デモクラシーを否定すると,やはりわれわれは隣人を媒介にして自分を規定するということになる。デモクラシーというのは,ぼくは要するに隣人を拒否するというか,必要としない原理だと思うんです」
石川「われわれ売文の徒はそう簡単に悟るわけにはいきませんよ。死をかけて守るなんていうことを言っているから,政治に利用されるわけです」
三島「きみの芝居そのものには,日本語の微妙なニュアンスがいっぱいかくれている。われわれは日本語というものにつかまれているんだよ」
安部「そういうものをぼく好きだよ。しかし,好きだということを,ぼくは否定したいんだ」(1967年)

吉川幸次郎「中国では,自分が鑑賞者であるとともに,自分も制作に参与し得るものでなければならない。そういうものでないと藝術になりにくい。『書家』という言葉は中国にはないんですよ。『書法』と言うんだ。法則だ」「大体において朱子学は漸(修行を積んで悟る),陽明学は頓(突然悟る)です。漸ばかりが方法じゃなしに,一旦豁然として大悟する。そうした方法は仏教を待ったんじゃないかな」
石川「頓というのは堕落するとごまかしだよ。大体,漸でいくのがまともだね。しかし漸でいってそれで突き詰めていくと頓だね」
吉川「旧体制の中国なら,大学教授の地位にあるような知識人は義務として詩をつくらなければいけない。そのときに杜甫のような率直な詩をつくったら,これはチャイルディッシュなんだ」「いわゆる慷慨の志がないと,中国の詩は詩にならない。ところが,日本人の詩は,抒情に流れすぎる」
石川「紅衛兵のいまの文化大革命,ぼくはこの騒ぎ大好きなんだ。ぶちこわしが好きだということで好きだ。これは思想じゃないんだ,趣味というんだ。ただ何かいろんなものをあまりぶちこわし過ぎるということは,これも趣味として好まない」
中野重治「打倒されたものの中で洗練されてできたあるものは,ある永遠なものを持つというわけですね」
石川「体制をぶちこわすと言っただろう。必ずしも体制が悪いからじゃないんだ。体制があるからそれをぶちこわすんだ」(1967年)

石川「どうも毛さんという人は,孔子さんが志を得たような形のような気がするんですがね。孔子東周ですね。西洋の革命家の本はいらないんだな。一種の排外思想です。聖人が世に現れると,麒麟が出るとか,竜が出るとかいうんだけれども,いま現れた竜があるとすれば,水爆だと思うんです」
吉川「人間は人間の力だけで大いに理想社会をつくりうる。それが中国の思想の中心だとおもいますね,それがいいところでもあり,ぼくが不満なところでもあるんだけどね。だから中国の根底は,無神論だというんですよ」
石川「『論語』の精神は,人間は動けということでしょうね。なんにもしないでボンヤリしているな,碁でも将棋でもバクチでもいいからやってろ,というわけですよ」「中国で近代小説が伸びなかったのはね,老荘思想があるせいじゃないかと思うんですよ。有用よりも無用,賢よりも愚,はたらくよりもぼんやりのほうがいいわけです。老荘というのは士大夫の説,大人の説だって,小人の説(小説)ごときなんということもないということですね。それなら後世の小人は食うためにハッキリ商売として小人の説を書く」(1969年)

貝塚茂樹「日本でいう酷吏は,人民をいじめぬくんだが,『酷吏列伝』(司馬遷)では,大官・大金持,つまりいちばん権力と財力をもっているやつをやっつけている。次の王朝の候補者は大官・大金持だと考えていたから,これをつぶすのが酷吏なんですね。中国の政治は,人民を骨抜きに,大官や軍人をも骨抜きにすることにあるんですが,家康はこれを学んで相当にうまく使っている」
石川「明治には大政治家がいない。軍を骨抜きにしなかったのだから。制度はこさえたんだが,これをこさえてしまうと制度のほうが強くなってしまうのを知らないんだな」(1968年)

三島「われわれの作家の神経では,親とか,家族とかいうものと,文学というものは,いちおうアンチテーゼである。肉親感情というものから,私小説の作家ですら,なんとか逃げようとして苦しんできた。そこで,子供が出世して親が喜んで出てくるなんて,考えただけでも気持が悪い」「尊敬する人は父親だと答えるようなところに,戦前の上流階級の最大の欠点があったんだろうと思いますね。自分の細胞からつながっているものはみんな忌わしい。どこかで絶ち切りたいと思うから,なにかそこで抽象世界を作らなければ生きていられないのですね。それは近代小説の宿命ですよ。もうその,いやだという気持が,今はあるいは薄れてきているのではないでしょうか。その証拠に,とても残酷になってきていますよ。伝統に対してオブザーバーでいられるという感情が強くなってから,民俗学や比較人類学や文化人類学などが進歩してきたのでしょう。日本人は,古いものとさえいえば,奇異なもの,特殊なもの,という気持で,カメラとテープレコーダーをもって,飛びついて行くわけです」
石川「デモクラシーがニセものの,不完全なものであっても,幾分かは民主的でしょう。こいつの革命はどうすれば成り立つか。いちおう冠はないことになっている。それではだれかの首を斬るんだ。冠かぶった形のやつの首を斬ったとしても,あとまた首はニョキニョキと,孫悟空みたいに出てくる。だから,デモクラシーというものは化けものですよ。あとからあとから首が出てくるから,それをいちいち斬っているうちに当人が斬られてしまう」「文学なんかすぐつぶれるためにある。消えるためにわれわれ一生懸命やっている。いちおう一生懸命みたいなふりしてやっているんですよ。それが残ったらもう実に目も当てられないですよ」
三島「文化と政治の関係はナンセンスで,入場料だけだということですよ。文化と革命の関係は,瞬間であり,永遠でしょう。文化と政治のつながりはないのですよ」(1970年)

  • 「麗わしき鬼」#43

あらら,水上雄一をあっさり殺しちゃったのかよ>この稲垣吾郎半田健人を+して÷したキャラまだまだ使えるコマだと思ったのになぁ…コイツ無策な上に動揺しすぎじゃねぇの? っつうか,英矢とか富弓の方がイラネェじゃん(怒) せっかく応仁の乱クリミア戦争みたいな展開になると思ったのに_| ̄|○ この調子だと池沢留美も使い捨てかな…?

これも3回目くらい。オランウータンのクライドがイイ味出してます(脱糞には勝てませんw)→大島の「マックスモンアムール」はこれを引用したか?<まさか 今日のサンドラ・ロックは藤田淑子「クッキーの代わりに私を食べたら(^_-)」「何か私がウットリするような芸当してみてよ(*´ -`)」>「キャッツアイ」の長姉みたいな感じだなぁσ(^_^;)…艶笑噺でもあるからこれもアリかな? ひょっとして歌もベイゴで歌ってる? 殴り合いの賞金稼ぎなんですが,スカッシュやジョギングで身体を鍛えてるのがいかにも1980年だゎ。全編を通して流れるカントリー・ミュージックが素晴らしい>佳作「センチメンタル・アドベンチャー」はこの2年後だもんね。台詞はかなり意訳が目立つ。