鬱少女漫画(姑と後家の同性愛的関係)かと思えば,昼ドラ風のドロドロ感(二人のインテリ男の泰子を巡る鞘当てや,貞子が探偵を雇う部分,泰子と春女が入れ替わるところ)もあり,ミステリイ仕立て(白痴の娘に孫を生ませる計略?のどこまでが三重子の意思通りの結果なのかはわからない)のようでいて,古典(筆者は『源氏』の口語訳者でもあるとともに能や和歌のテクストも豊富)の自己解釈のようでもあるという見事な小説。まだ新幹線もなかった時代の京都と東京,熱海の描き方も興味深い。しかし,読み進めたくなる読書の快楽…といったものは全くないのではあるが。以下,少し引用しておく。

・三瓶は女の皮膚の美しい色について,陶器型,雪型,花弁型,繊維型と四つに大別していた…何といっても最上の皮膚の美は内から萌え立つ生命力の自然に開花する初花の美しさに如くはない。
・表情を皆内へ畳みこんでいる能面の寂かさね…あれは間違いなく,過去の日本の女の人だけの持っていた顔だと思うんです,…そうして,うちの母なんかが,あの面のように躍動する精神を全部内へ畳みこんで生きていられる最後の日本の女ではないかしら。
・藤壺の宮や紫の上が男をゆるす苦しみの中に自分のすべてを溶解して男の中に永遠の花を咲かせる女であるならば,六条御息所は男の中に磨滅することの出来ない自我に身を焼きながら,現実のいかなる行動にもよらず,悪霊的な能力によって,自分の意志を必ず他に伝え,それを遂行させねばやまぬ霊女なのである。
・春女の顔に精神が籠められ,男の線を与えられたのが,そのまま秋生だったのだと泰子は思う。それほど二人は双生児の運命をまざまざと容貌にわけていた。生れる時…いや,母の胎内にいた時,既に春女は秋生の足に脳をおされて,精神薄弱児として生れる運命を与えられていたのだ。
・一体巫女というものは霊媒的な存在から転じて売春婦でもあるのが普通です。神憑りの状態そのものが,官能を極限まで働かせる肉体的なものですから,智的な労働が性欲を減退させるのとは反対に巫女の肉体は性それ自身に感じられるほどになるわけです。…業平が従妹の伊勢の斎宮の御殿へ行き,斎宮と契を結ぶ件がありますが,精進潔斎の筈の斎宮が自分の方から夜中に業平の閨を訪ねて来るというようなところにも,性行為を罪悪視していない巫女的性格があって面白いと思うのです。
・伊吹は栂尾三重子に何度となく逢っているに拘らず,彼女の眼鼻立ちに鮮明な印象のないことを不思議に思い出した。…三重子の顔は,白く柔和なたっぷりした輪郭に包まれていて,そのことだけが記憶に残るような顔なのだ。強いて言えば能の女面の顔とでも言えるのだろうが,それ以上に茫漠とした捕えようのない印象なのである。
・何とかして,女の生むのが自分の子供だということを信じこもうとして,姦通罪をつくったり,貞操帯を工夫したり,男は何千年もの間口に出来ない苦労をつづけて来たけれども,結局女の秘密をばらしてしまうことは何一つ出来なかったじゃないか。お釈迦さんやキリストが女をサジスチックに憎んだのも結局勝負にならない相手を降伏させようとしたからさ。

  • 「はたらキッズマイハム組」#16

えーーーっ,ナニーって躾の派遣労働者なのか? しかも,アリメ=メアリって分身の術? この退屈な踊りやお話に従順な幼児ハムスターが宗教クサい。