通山愛里(数年前の松本莉緒似)もよいですが,武田航平が「キバ」なんぞより断然イイ。告白シーンはキュンときたo(><)o 大手事務所に引き抜かれるんかなぁ?

人が少数者であるためにはどのような戦略が必要なのか,現存の機制や権力関係にどのように干渉し,どのように機能不全を起こさせたらよいのかという関心が,歴史家を言説分析に向かわせるのだと思う。

冒頭のこの文に惹かれて読んでみたのだが,どーやらハッタリであった。この本も学び捨て(米語ではアンラーニングとゆうらしい)てよろしい($・・)/~~~
・ひろたませき部分→ごく常識的な解説。目新しい視点ナシ
・Cグラック部分→何が言いたいのかサッパリわからない。1筆者がダメなのか,2訳者がダメなのか,3俺がダメなのか…どーせ3だろ…と思ってたら,巻末の対談を読んで1のような気がしてきた。
・横田冬彦部分→江戸前期には「日本」百科全書が流通していたことはわかった。神国観は勿論,仁政観にも閉塞感しか感じられないが。
・Dハウエル部分→これが一番興味深かった。

美作一揆では農民たちは竹槍,銃,刀で武装していた。津川原における暴徒の場合は,最初は数名の部落民をまず石で殴打し,少なくとも一人の老女を焼死せしめたが,ほどんどの場合,竹槍と銃が犠牲者の殺戮に用いられた。
幕末期,青年層は犯罪に染まるか染まらないかのふちでぐらついている「悪者」勢力の予備軍のようなものであった。村落において広範囲に武器が存在していたことを率直に認め,そして法執行役のために一揆百姓の作法の一部を利用することで,幕府は事実上地方全体で自己注意,そして自己警備させるように命じたのである。なぜなら地方のすべてが暴力的周縁へ転落する恐れがあったからだ。

酒井直樹部分→カッコイイこと言ってます。この啖呵は先ず隗より始めていただきたいものです<(_ _)>

ポスト・コロニアルのポストとは「後の祭」という意味での,「取り替えしがつかない」あるいは回復不能な事態における「ポスト」である。それゆえ,ポスト・コロニアルな視座から考えると,植民地主義者であるという性格は,日本人という同一性にとって,偶々偶然に付け加わった付帯的な事態ではなく,本質的な事態なのだ。
私は恥の感情の中におり,私は戦争責任を問う人々の眼指しのなかに居るが,そのような人々の問いかけに答えることは,自らが有罪可能性の立場におかれていることを否認することなく,しかし,責任を問う人々が押し付けてくる日本人という既定に抗議し,日本人の内実を大きく変えていくことだろう。戦争犯罪者を日本国民のなかから,はっきりと,突き出すことだ。日本人の内実を大きく変えていくためには,日本人を統合するのではなく,日本人の共感による共同性に分裂を持ち込むことが必要なはずだ。