• 決定稿はないらしい

ガリレイの生涯 (岩波文庫 赤 439-2)

ガリレイの生涯 (岩波文庫 赤 439-2)


ブレヒトの流動する弁証法やら異化については解説に譲るとして,修道士の「彼ら(単純な百姓たち)のまわりには世界という劇場が構築されていて,彼らはそのなかでめいめいの大きい役,小さい役を演じながら自分の勤めを果たしているのだということは保証されているのです」という,いかにもな言い草(しかし文字通りシブトイ草の根保守主義)に対して,ガリレイの「地上の大部分の人々は,彼らの領主や地主や聖職者たちの手によって,彼らの陰謀を蔽い隠す煙幕,迷信や古臭いお題目という,真珠色にたなびく無知のもやのなかに包み込まれている。…疑うというわれわれ流のやり方は大衆の心をとりこにした。大衆は望遠鏡を私たちの手からひったくって,それを自分たちを苦しめるもの,領主や地主や僧侶にむけた。…そこで彼らは,われわれ科学者を,しつこく脅したり買収しようとしたりした。…しかしわれわれ科学者は,大衆に背をむけてもなお科学者でいられるだろうか? 天体の運動は以前よりずっと見通しがつけ易くなった。だが民衆たちには,支配者の動きは相変わらず予測できない」と反駁するものの,ブレヒト自身がいうように「近代科学は教会の正統の娘である。ただこの娘のウーマンリブが進行して,母である教会に楯つくことになった次第なのだ」から必ずしも有効ともいえない。なにしろ「原子爆弾は,技術的な現象としても社会現象としても,ガリレイの科学的な業績と,社会的な機能停止の生みだした古典的な最終生産物である」なのだ。むしろ,主人公に共感したがる観客という状況は,ドラマや映画が主流の現代では更に強まっているように思えるし。