私の1968年

私の1968年

 

山崎博昭事件も、下山事件や樺美智子事件と同様に、慶大法医学教室が行ったのか。

暴力はテロ、非暴力はデモやストライキ、暴力は無効で非暴力は有効とでも受けとられかねぬ単純な区分けを、いつから人は信じられるようになったのか。

1960年代の日本のきわだった現象は、「平和」「民主主義」「自由」等々の言葉に一つの意味づけを行い、分類を完了し、かくてこれらをまったく無害なものと化したことではなかったろうか。

演技であり象徴であればこそ、これ(バリケード)が否認の武器になるということであり、暴力を演じるからこそ、これが現実にその意志を政府に強制する「暴力」になり得たということである。

ユマニテ』がコーン⁼ベンディットを「ドイツ人のアナーキストだ」と言って罵倒したつもりになると、彼らは一斉に「おれたちは皆ドイツ人のアナーキストだ」と叫ぶ。

じっさいファノンのように徹底して普遍化・全体化・インターナショナリズムに賭けた人間が、彼の批判してやまぬ民族主義政党であるFLNに飛びこんでゆき、そのスポークスマンとすら見なされたことは、このうえもない皮肉であると同時に、まさしくファノンの孤立と彼の思想の有効性とを一気に確保するものであったと私は考える。

その40年の半生を含めて金嬉老の行動が指し示しているのは、彼をまた民族=民衆を、引裂き、犯し、ボロ屑のように投げすてたまま恬として恥じぬ日本国家の過去・現在に対する、激烈な否定であり、日本の権力と「同化」「統合」という名の差別とを拒否する意志である。

左右の敵対意識が日本を無事なほうへ導いた、とする堀田善衛を批判。

金嬉老寸又峡に立て籠ったとき、テレビを通じて訴えよという要請にたじろぎ、筆者は一日街を逃げ彷徨ったのだそうだ。

佐藤勝巳や中嶋嶺夫も当時はマトモだったのだな。

そして、警察官や検察官や警察官や新聞記者やらの実名を晒して糾弾する姿勢は素晴らしい。