寺子屋教育の如きはただ彼らに「文字」を教えて、デカダン文学の心酔者たらしめるよりほかに、何らいい意味の業績はなかったのである。

・都会は異教徒の世界であった。弥陀や観音は追放せられたけれども、そこには日本のヴィーナスがいた。「三味線の国の快楽の女神」がいた。

・市民的情念は貴族的「古典的静平」に圧伏せられ、単純化、本質的ならざるものの廃棄、内面からの理想化が行われる。ラファエロミケランジェロでさえ、イデア・モデルから創造し、外面的世界を抛棄しているのである。

・14世紀、ヨーロッパの到るところで、モラリストや庶民層の指導者たちが「自由」ばかりでなく「社会的平等」と「社会的正義」への呼び声を高らかに上げた。百年前、アッシジのフランチェスコに帰依するその後裔が、一つは清貧と純潔と従順を念とする禁欲的共産主義を唱え、他は平和と協力と完全なる自由の支配するユートピアを志して、猖獗した無数の「異端」運動と相呼応する恰好になったのも,根を洗えば、それが「脂ぎった市民」の支配に対する庶民層の不服従と反対との一つの表明だったからにほかならない。

ミケランジェロを墓廟の芸術家と呼び、レオナルドを洞窟の芸術家と呼ぶ。

筆者は理知的な人というイメージがあったが、結構アグレッシブな人でもあったのだな。☆