時間 (1957年) (新潮文庫)

時間 (1957年) (新潮文庫)

 

 侵略される中国人の側から描いているのだな。「観念の小説」は21世紀的なので、岩波で蘇ったのもよかった。☆☆

・敗戦とは、文書焼却から発するもののようである。(中略)これから後は、このわれわれ自身が史料になる番である。

・いまや海からは日軍という絶望が侵入して来、希望は海に背を向けて中国の奥地へと転廻し、一歩一歩、一刻一刻、根元の方へと戻ってゆきつつあるのだ。(中略)都会の学生の群れは、農民を、すなわち中国を知り、農民は都会人の悪を知るようになるだろう。

・戦争は、九十九パーセントまで労働なのだ。労働以外のなにかだなどと思うことは、人生を誤るものだ。

・市内には、急速に人気ない沈黙の溜り場が増えて来ているのだ。その場には、既に恐怖というのではなく、恐怖の領域に属する病菌が培養され、この恐怖菌に犯された人々は、一様にこめかみと頬をひきつらせ、それまで笑窪をもっていた女性も、きっとそれを失くする。そして、他人と異った考えをもたないように、懸命の努力をはじめる。

・二つの屍を炭として宇宙が熱せられている。かげろうのように人の血と膏が湯気となって天に立ち昇ってゆく。あたかもこの瞬間の、世界に於ける南京を象徴するかの如くに。

・野犬が裸の屍を食らうときには、必ず先ず睾丸を食らい、それから腹部に及ぶ。人間もまた、裸の屍をつつく場合には、先ず性器を、ついで腹を切り裂く。(中略)人間は、殺しての後に行くべきみちを知らぬ。もしあるとすれば再び殺すみちを行くのみ。

・なかで一人だけ、既にこときれていた。靴はなく、足は凍傷に崩れ、衣は破れ、垢は身体に満ち、髪は耳を覆い、深くくぼんだ眼は瞠いたままだった。手にはかたく空罐のふちをつかんでいた。空罐のなかはからだった。口と下腹部から血が流れていた。

・日兵が娘を輪姦した。娘は、顔に糞便を塗り、局部には鶏血を注いで難を逃れるべく用意をしていた。(中略)彼等は娘に縄をつけてクリークに投げ込み、水中で彼女がもがくのを喜び眺めた。(中略)兵の顔は、用を済ませた獣と永遠に不満な人間との中間が、どんな顔つきのものであるかを明らかに示していた。

・協力者、漢奸はみな女性的な性格の持ち主だ。日軍という旦那がある。伯父のよく肥った尻に、ふとわたしは、女性の役をつとめる男色者を感じる。戦争は、侵略侵入は、死と性、血と精液の臭いに満ち、協力者は売春婦の局部の、あの饐えた臭いを放つ。そして売春婦はすべて、宿命論者である。(中略)日軍の権力だけが協力者を何者かであるものにする。

・生きるってことは、濡らすことだって、死ぬってことは、乾くことだって、(中略)くちゃくちゃに濡れているよりも乾いた方がいいように思ったの。