ひたすら( ..)φメモメモ。☆☆★

・バウアン(フィリピン)の町もほとんど無人で,宣伝班など軍司令部の関係者は,空き家と化した富裕層の邸宅を宿舎に定めた。そこにはコニャックやウィスキーが「置き忘れ」られ,東京でも「絶えて飲んだことがない」香りの高い珈琲を飲むことができた。

・日本は,欧米支配下におかれてきた東南アジア植民地の戦前の秩序や構造を破壊するのではなく,むしろ戦時の混乱からそれらを復旧し,さらに維持しようとした。その占領政策は,ときとして日本が非占領者に対してある種の宥和主義で臨んでいるかとさえ映るものだった。

・邦人進出問題について飯田(ビルマ派遣軍司令官)は「彼ら(日本商社)はビルマに在る利権は之を日本人の手に入れ,将来に亘り之を経営して行くもの」だと決めて「自社が将来有利に経営する為の準備」の専念する一方で「ビルマの経済力増進強化」などということは「全然念頭にない」「このような日本人がどんどん進出してきて,各方面で威張りちらして働き出すのだから,ビルマ人の頭にこれが何と映ったであろうか」と批判する。

・在留邦人社会は,二,三年の駐在で帰国していく商社・金融・海運の支店に勤めるエリート的日本人と,永住を覚悟して住みついた「ろくに学歴もない無告の民の集団」の二重構造が顕著であった。前者の後者に対する蔑視や警戒感は,南方作戦を展開する日本軍や占領軍政に日本から派遣された官民の軍属にそのまま引き継がれたのである。

・浮かび上がるのは,日本が東南アジアの支配者・経営者として欧米と交代する実力に欠けていただけでなく,はたして寄生者でさえあり得たのかという疑問である。宿主と中長期的に共生できる見通しがなく,宿主を死に至らしめる寄生者は宿主から見れば排除すべき病原体でしかない。そのような意味において,日本の軍事支配は,東南アジアを数年で飢餓と死に至らしめる存在でしかなかった。そして日本帝国にできたことは,占領地の経営ではなく,暴力と武威による,帝國の最も古代的な形態としての戦利品の略奪に過ぎなかったのである。

・榊原日記「(日本人は)酒場,または慰安所の如きところにのみ入りびたり,その上酔っぱらいとなって大道を歩く…軍人にしても外出者の酒飲,だらしない者多く,酒場に於て刀を抜くに至っては言語道断」「昭南で物価が上がる。その主たる原因の一つは日本人の買い込みだ。棉布,毛織物,靴等,これらの店に入っているものは日本人ばかり」

・大東亜会議(1943年11月)で参加各国首脳が繰り広げた一連の自己主張・批判・苦情・講義に対して,日本政府そして東條首相は,期間中,文字通り低姿勢の対応に終始した。

・「かれら」の力強い独立至上主義と正対したとき,日本政府も派遣軍も,あるいは民族主義運動とかかわった日本人も,あからさまな弾圧者となる以外には,肯定する以外の選択肢を想像することができなかった。