ゲリラと森を行く

ゲリラと森を行く

さすがに小説家でもあって,かつての船戸与一を思わせる共伴者感覚が良い。地図がわかりやすければもっと良かった。「ロシアや中国,ベトナムでは何百万という労働者や農民が命を犠牲にして社会を築いた後,革命で勝ち得たものを覆し始め,抑制のきかない資本主義経済へと向かっている」時,インドの希望は「一億人にものぼるアーディヴァーシーが生き延びている。かれらこそ,持続可能な生活の秘密を守る人びとだ。しかし,グリーンハント作戦のような戦争が,かれらを消し去ってしまうかもしれない」。もし,資本主義が自らの内部に,非資本主義社会が存在することを容認し,支配の追求には限界があると認めざるをえなくなった日」変革が訪れるだろう。

・武器をとる人びとはテレビを見たり,新聞を読んだりしているのではない。「暴力は良いか悪いか」答えをショートメールで贈ってください,なとどいう今日の「倫理学」の問題に携帯電話投票をしているのでもない。

・奇妙な武器を持った,風変わりなうつくしい少年少女が,あたりで寝ている。みんな毛沢東主義者にちがいない。いずれ死んでしまうのだろうか。ジャングル戦訓練校はこの子たちを標的にしているのだろうか。

・わたしはこの時点でなにか言わなければ,と感じた。暴力が無益なこと,即時処刑は容認できないこと。では代わりに何をすべき,と言えばいいのだろう。裁判所に行くこと? ニューデリーのジャンタル・マンタルで座り込みでもしろと? 集会を開けって? それとも,リレーハンスト? ばかげた話。「他の選択肢はない」と,いともたやすく言ってのける「新経済政策」の推進者たちは,「新抵抗政策」を示してみるよう問われるべきだ。

・今では破壊活動にもガンディー主義的な方法がとられる。たとえば,警察車は焼く前に分解して,使える部品は全部取り外す。ハンドルはまっすぐに伸ばして,バルマールの銃身に,座席の合皮カバーは引きはがして弾薬入れに,バッテリーは太陽光発電に姿を変える。

・ここ,ダンダカランヤの森では,幸せというものが,心の底からまじめに考えられている。人びとは何マイルも,何日もともに歩き,祝い,歌い,ターバンに羽を飾り,髪に花をさし,腕を組み,マファ酒を飲んで,夜通し踊る。ひとりで歌い踊る者などいない。こうしたことこそが,なににも増して,かれらを滅ぼそうとする文明への抵抗となっている。

・八百人の警官隊が夜にやって来て,森の村に非常線を張り巡らし,家を焼き,人びとを射殺しているときに,ハンガーストライキに打って出るのは,はたして効果的だろうか(そもそも,飢えに苦しむ人たちにハンストが可能だろうか。それに,テレビで放映されないハンストに,意味があるだろうか)。幸い,ごく普通の人びとは,イデオロギーの区分を打ち破ることができる。アイデンティティの危機に苦しむことなく,ジャンタル・マンタルではガンディー主義者に,平野部では活動家に,そして森ではゲリラ戦士になることができる。インドの抵抗運動の強みは,まさに多様性にこそある。決して,統一性ではない。