近代日本と東南アジア―南進の「衝撃」と「遺産」

近代日本と東南アジア―南進の「衝撃」と「遺産」

粛々と再読&メモ

・日本側は,人権問題と援助を直接的に関連づけることには消極的な姿勢をとり,このことがまたインドネシア政府の日本政府に対する少なからぬ影響を及ぼしたのであった。通俗的な表現を用いるならば,援助問題と戦争責任問題がバーター取引きされ,そのことが「従軍慰安婦」問題あるいは元兵補の補償要求についてのインドネシア政府の消極的な態度,政策となって反映したと総括できるのではないか。

・東京,現地出先機関が一本の線で繋がっており,「慰安婦」が組織的に,即ち軍の統制下に「調達」されていた。…「南方発展の根拠地」と位置づけられた植民地台湾が重要な中継機能を果しているという事実である。

・日本軍にとっては女性は食物や酒と同じであり,世界中日本だけが従軍慰安婦制度をもっていた。日本における性行動はきわめて奇妙であり,たとえばわれわれは東京のヌード劇場で観客が参加を許されるライブ・ショーをみることができる。…日本人にとって,性とは公然と語ることのできる必需品なのである。

・日本軍政は…精神主義的ロマンチシズム(さらにはその変型としてのアナクロニズム)に彩られた,そして「ビンタ」に象徴されるような日本的スパルタ主義にたったカサル(粗野)な行動型式でインドネシア民族に対して臨みがちであった。

・日本軍政は,西欧流の政党政治を否定する一方,スカルノやハッタを解放し対日協力を要請したことが象徴するように,著名な民族主義者を利用して日本側の意図を一般民衆に下達する方針で臨んだ。民族主義者の側からみれば,日本軍の「お墨つき」の下で,オランダ植民地期には予期できなかったある意味での「行動の自由」を獲得することになったわけである。

・イスラム教徒に東京に向けての遥拝を強制したことは,彼らの間に鋭い反日意識を醸成することとなった。

・繊細で柔らかなインドネシア人の心の中に,あたかも何世紀もの間埋もれたままになっていた怒りとか憎しみ,恨みといった感情を日本軍政が掘り起こしたのです。