[rakuten:surugaya-a-too:12752030:detail]
ジュネやファノンを通じての「少年は,事実としての民族や祖国を誇示するのでなく,つまり一気に善と肯定性の集団に身を投ずるのではなくて,否定性のなかに,悪と想像のなかに主体を求め,そこに彼の独自な本性を作り出したのであった」という李珍宇への評価は,前半の紋切型はともかく,後半は首肯できるものである。金嬉老を巡る追憶が「対策委員会」(なかなかに「豪華」な人々だ)のユニークさに帰結するあたりも興味深い。「シオニズムの運動を鼓吹する人があったのと同じように,ソドミストの運動を創設してソドムの町を再建する,といった過ちである。ところが,ソドミストたちは,ソドムの町の者と見られたくないために,その町に到着してもたちまちそこを離れるだろうし,妻をめとり,別な都市に愛人を囲うばかりでなく,その場にふさわしいありとあらゆる気晴らしを見出すだろう」というプルーストの記述は面白いが,いや,気晴らしを見出すことは確かだが,シオニストシオニストと見られることを誇示し,決して離れることはないのである…。